昭和42年06月08日 夜の御理解



 私は、常日頃に思う事ですけれども、子供達に信心を教えておきたい子供達に信心を本当ゆずっておきたいと。是は私の子供というのじゃなくてここに教えを頂く皆の人達。同時にその皆の人達にも、この信心だけは子供にも、子孫にも残しておきたいと。と言う様な願いを持って貰たいと云う事である。又同時に私はそういう願いをまぁ持っておる。私の信心がまぁ良い信心と、間違いのない信心とは言えないかも知れないけれども、段々信心が分からせて頂くにしたがって思う事はそういう思いが痛切である。
 信心というのはそのただ、はぁお父さんが金光様のご信心しござったから、何かの時に自分の苦しい時に、金光様とお縋りする事を覚えておく。それでも結構ですけれども、それだけでは便りない。そこで、その私の信心をと言うのである。いうなら私の物の見方。私の考え方。私が神様に向かう気持ちと言う様なものを、知っておる、おってもらいたい、覚えておってもらいたい。
 そして私の様な、いうなら物の考え方、物の見方が出来るならば自分自身も楽だし、同時に、是になら必ずおかげがともなうと言う事を、私は確信しておるからそれが言えるのです。いかに金光様の信心を致しておりましても、又まぁ取り合えずここに御神縁を頂いて信心の稽古を致しましても、何時まで経っても私の思い方。それは信心の程度というのは、ピンからキリまで御座いますから、それは誰が誰の様にという事は出来ませんけれども、一つのそのこう言う物だという事なんですね。
 物の見方においても、考え方においても。大体は是が本当なんだと。ですから是は家族の者でも、私の子供でも、私がそれを切に思うというのは、矢張り家族の者が子供達が、まぁそういう信心を覚えたいと、いう願いに燃えておらなければ出来る事じゃない。ただ聞いて、唯ぼんやりしておっただけでは、その信心を体得する事は出来ない。矢張りその事を繰り返し繰り返し、子供ながらに、ね信心は分からんなりにもその事を、そうだと思いこませて頂く所まで、信心の稽古を続けなければだめ。ね。
 今朝からも、おかげは絶対なものとして、おかげの受けられんのは、まだ私の信心が足りんからだと。してそこから一心に信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられるというのは、お道の信心でいう、そのあいよかけよという事がです。今日はあの、壱岐の末永先生が、私と一緒にやっぱりご本部で今度おいでられなければならん。それで一日早くから、今日から出発されました。
 それで、まぁこちらに寄られてから、色々話を聞かせて貰ったんですけれども、その話の中にです、ようも是だけの教会を、是だけの事柄を家の父が一人で、やり回しておったなぁ。是では、手が足らなかった筈だ、もう、一から十まで、ご神前のお掃除から、ご神饌の事から、まぁたまには奥城のお掃除から。もうお広前はもう一人でお父さんがしよんなさったらしいですね。で今度本当に自分が、お道の教師になって帰って来てから、そこが分った。
 ですからあの、偉い色が真っ黒になって来ちゃりますけん、偉い色が黒なったですねっちいうたら、それがあぁたもうこの頃、もうお広前の周囲の草取りやら、それやらもう奥城は、もう竹薮で一杯もうしとったから、根から掘り起こして、奥城を綺麗にして来る様な事をしよりましたから、それで色ん黒うなったと言うような事を、言よんなさりましたけれどもね。そうして分る事なんですねぇ。
 そうして分る事は、あのぉお父さんが大変であったろうと云う事であった。それでもうあの、おかげを頂いてから、あのそのそういう御用以外には家に、お広前におらして頂いてから、御信者さん相手に一生懸命父が相手しておった、御信者方を私が、その相手させて頂いてから、ほんに信心の稽古をさせて頂いておるという事を、ほう末永先生今朝の御理解がそれじゃったよというて、私は話た事でした。
 あいよかけよという、親の事は子が願い、子の事は親が願い。氏子あっての神。神あっての氏子と。と云う様なその、表現がですね、唯それが分っただけではいけない。本気でそのお父さんが大変であったろうというて、お掃除をさせて貰ったり、それこそ奥城の竹薮を自分で、その綺麗にお掃除をさせて頂いておる中にです。お父さんの気持ちが分かって来ただけではなくてです。お父さんがその事を非常に喜ばれた。
 お父さんの願いというのはもう子供にかけては。一生懸命の願いを持っておられん事はないですね。親の願いを子供にかけてある。思いというものは切ない。口に言わないだけの事。どうぞ子供達が幸せになってくれる様に、幸せになってくれる為には、この信心を本当に頂いとかにゃ出来んのじゃが、この生き方を覚えとかにゃいかんのじゃがと思うたり、言うたりしてもおるけれども中々子供がその気持ちにならんけれど。
 子供が一年間修行して帰って来て後結界に付かせて頂いたら、お父さんが大変であった事が分って来た。そしてその、お父さんのしよんなさった仕事、御用を一生懸命自分はさせて貰う、そういう修行をさせて頂きよる中にです、親の事は子が願い。子の事は親願いという精神が分って来たとこういう。親の願いと子供の願いとが一緒になって交流したいと。そこから有り難い。
 そこから、お広前、別にちょいとした用事ぐらいな事であった。もう外にも出たくないと云う様なそのおかげを頂いておりますとこういうておる。今朝の御理解にもやっぱそうであった。おかげは絶対のもの。その絶対のおかげの受けられんのは、こちらの信心が足りんからだと改まる事に研く事に、だから一生懸命の信心修行に打ち込ませて頂くと言う事によってそこから親と通うものが出来、神様と交流するものが出来て来る。そこから本当のあいよかけよの道というのが開けて来るのだという事を頂いておる。
 今朝から、吉井の熊谷さんが、昨日の朝のご祈念中に、お知らせを頂かれた事お届けをしてなかったらしいんですけれども、今日お届けされたのにね、ご神前に一升瓶と、あのお酒のビンに一合瓶がこうやっておいてある。あらこれにはお神酒が少し入っているなぁとこう思うた。そしたら誰かがその、一升瓶と一合瓶をこうやって倒してしまった。所が一つもこぼれんげな。
 ありゃこりゃ入っとらんじゃったっじゃろうか、と言う所で、あっ、今んとは御心眼じゃったなぁとこう思うたとこう。次には、本当に生まれたばかりのその赤ん坊、赤子をを真っ裸なまま手の平に誰か乗せてから、こう熊谷さん前に持って来た。御心眼を頂かれた。その一升瓶と一合というはどう云う様な事だろう。仏教の言葉に、「一生一期」という言葉がある。又「一期の頼みというですね。一期とは期という字を書いてある。一期の頼みとこう。一生一期。あの世この世を通してということになる。
 一生瓶、一合瓶。神様の表現は素晴らしいね。一生一期の例えば事。この世で助かるだけではない、この世の助かりがあの世にまでも助かって行けれるという道に御縁を頂いておるんだけれども、この一升瓶があるだけじゃいかん。一合瓶があるだけじゃいかん。中に有り難き、勿体なきというお神酒が入っておらなければ駄目ななだという事。分かっておるだけではいかんという。
 矢張りそれが有り難くならなければいけない。同時に生まれて来る時に誰でも布一寸でも持って来た者はない。んや私は着物を着て来たという人もない。皆裸で生まれて来ておる。いうなら自分のもつ物は何もない。ですから一切が神様の御物であると分からせて頂くと、いや自分の命までが神様の命であると言う事が、分からせて頂くと言う事。そこからあいよかけよの道が開けて来るのだと、いう御理解を頂いたんです。
 それ聞いてから素晴らしいなぁ、神様の表現。昨日の朝から今朝にかけて私が一生懸命、まぁ一時間あまり説いておるですね、30分ぐらい説いておる。一生懸命その事を説いたんですけども、今熊谷さんが頂いておられるのは、その生粋の答えを頂いておられる。 この世だけの事じゃないから、一生懸命この世で、魂の極る事の稽古をさせて貰うて、ね、一生一期。それこそあの世もこの世も、おかげの頂けれる道を体得しておこうと、こう云う事である。
 しかもそこにおかげを頂いて行く道には、どういう道があるかというとですね、神様は一切の物をお持ちになっておられる。言うなら親が一切のものを持っておるから、親の物は子の物でもあるけれども、又子の物も親の物でなからなければいけないと云う事。この命は親の物、神様の物。私が持っておる是は皆、是は私の物じゃない神様の御物であると分からにゃいかん。赤子のお知らせはそれなんだ。
 誰も自分でこの世に生れて来る時にはそれこそ、布一寸でも持って来ておらん、にぎって来ておらんのだから、その後において自分に身に付いた物は全部神様の物だという事、財産も家も屋敷も、全部が神様の御物だと、分からせて頂く所からです、いわゆる私の物も神様の物と分った時に、神様の物も又私の物と言う様な、おかげが受けられるという、素晴らしい事。
 私がおかげを受けておるのも、やっぱそうだと思う、自分の物と一つも自分の物はないと思っておる。神様の御物だと思っておる。だから神様の御物であるから、大事にしなければおられないと思う、電気だって必要な時にはなんぼ使っても良い。お水だって必要な時にはなんぼ使ってもいい。けれども神様の御物は無駄に、あだや疎かに使う様な事があっては、神様に対してあい済まん。自分の物じゃないのだから。
 そういう思い方が出来る。お金でもそう。必要な時には、もうどれだけ使うても良い。神様のお喜び頂ける事なら、もう全財産を打ち振るってもいい。けども自分の身の贅沢の為に、それをつかうという事は、神様の御物であるから、お粗末になる、ご無礼になるという事を思わせて頂いて行く所に、私は限りない、おかげを受けておるのじゃなかろうかと。自分の物じゃないと思うとるから。
 神様の御物だと、そりだから、神様も又お前のものじゃとこういうて下さるような気がする。無尽蔵。いわゆる無限供給の、おかげを頂かせて貰うという事の為には、どうでもそこんところの信心が分からにゃいけん。親の物は子のもの、子の物は子のものこういう考え方、おかげだけを神様から、親神様から頂こうと、そして自分の物はもうこうやって、自分の物と思うておる。こういう事では何時まで経っても限りない、無限供給のおかげにはなって来ない。
 そういうもう限りのないおかげの頂けれる道が。私が今頂いておる信心を頂いてさえおればです、そういうおかげが受けられるんだ。この信心を子供達が本気で分かってくれるなら、どんなに素晴らしい事だろう。それを子供に又孫に伝えて行くなら、どんなに有り難い事になるだろう。是だけは伝えておきたい是だけは子供に言っておきたい。是はもう親の願い切なんです。どうかしてこの事が分かって貰たい。
 だから、末永先生のお父さんでもそれを思い、言よんなさったに違いはない。けれども分らなかった。椛目に御神縁を頂く様になって、お道の教師を志させて頂く様になって、一年間修行して帰らせて頂いたら、親の思いが分る様になった。そして何と、お父さんの仕事の多い事におどろいてしもうた。今まではお父さんの仕事には振り向きもしなかったが、お父さんの御用の多いのにおどろいてしもうたと。思いが分かってその事を行じさせて頂く様になったら。
 親先生でありお父さんが、大変に喜ばれる。そこに親と子の助かり合い。親の事は子が願い、子の事は親が願いという、親と子の交流が始まったね。そこには矢張り修行させて貰わなければ、親の心は分らん。修行させて貰わなければ親神様の本当の思いは分からない。思いが分る所から、私は信心が本当に分かって来る。親が分かって欲しいと云う事でも、段々実際に分って来る様になる。まぁ是は本当に思う。
 皆が最近、嫁にやったり、嫁を貰うたり、したりしてからその、後の問題はその色々問題がある。親は信心が分かっていないけど、娘が分かっていない、息子が分かっていない。為に問題にもならない様な事が問題になって行きよる。こういう時には、娘達にも分からせて頂いておったら、こげな問題は問題にならないだろうに、と私は思う事がある。今日私青年会があっておるが。
 あぁいう青年会の、青年の方達がです本当にそう言う所を分って、なら嫁さんを貰うたり、又嫁さんに云ったりしたら、どんなにおかげを頂ける道がスムーズに開けて来るだろうかと思うね。物の見方が違う。考え方が違う受け取り方が違う。そこには問題にならない様な問題が、問題になっておるのでありますから、私共そういう幸せな物の見方、考え方が出来る様な所まで信心の稽古をさせて貰わにゃならんと思うですね。
   どうぞ。